物語を読むとき、私たちは「何が書かれていたか」だけでなく、「何が書かれていなかったか」も心に残します。
それはときに、物語の姿を決定的に変えてしまうものです。
『サイレント・ウィッチ』という作品には、WEB小説としての“ライブ感”と、書籍としての“完成された静けさ”があります。
そしてその両者には、はっきりとした違いがあります。
本記事では、「小説家になろう」や「カクヨム」で読めるWEB版と、カドカワBOOKSから刊行された書籍版を比較しながら、物語の“読み心地の差”や、受け取り方の違いを見つめ直してみたいと思います。
- 『サイレント・ウィッチ』WEB版と書籍版の明確な違い
- なろう版が未完であることの意味とその余白の価値
- 書籍版が描き直しを通じて与えた“完結”の意味
1. 物語の“始まり方”が違う|なろう版は即興性、書籍版は構成美
WEB投稿から始まる“いま”の物語には、作者と読者が同時に息をするリアルがあります。
「小説家になろう」で2020年2月に開始された本作は、まさにその生々しい空気感に満ちていました:
累計1.3億PVを超える人気ゆえ、その場の反応とともに成長する即興性が、“沈黙”の力を自然に引き出していたのです。
一方で書籍版は、すべてのページが計算され、磨かれています。
構成美と余白のバランスにより、モニカの“沈黙”に説得力ある静けさが与えられています。
2. 表現と描写の差異|WEBの自由さ vs 書籍の緻密さ
“書く”という行為は、どこまでも自由で、どこまでも制限されるものです。
『サイレント・ウィッチ』のWEB版と書籍版には、まさにその両極が静かに共存しています。
たとえばWEB版、特に「小説家になろう」に掲載された原初のモニカたちは、文体がラフで、感情の輪郭もゆるやかでした。
地の文には作者の呼吸が感じられ、セリフも時に“今っぽく”崩されていて──そのざらつきが、むしろ彼女たちを生きた存在にしていたのです。
一方、書籍版では、それらの表現が再構築されていきます。
文末のトーン、モニカの言葉選び、地の文のリズム──すべてが「ひとつの物語」として整えられている。
そのため、心理描写は深く、場面の切り替えも緻密で、ページの向こうに確かな構造が感じられます。
自由だからこそ響いた言葉と、整っているからこそ沁みた描写。
それぞれにしかない温度があり、どちらか一方では見えない風景があります。
僕が好きなのは、どちらもです。
なろうの荒削りな言葉も、書籍の整えられた文脈も、どちらもモニカの沈黙の一部だと思えるから──。
3. 展開と設定の変更点|“沈黙の魔女”を描く方向性の違い
物語が“どこへ向かうか”は、その物語が“何を描きたいか”と同義かもしれません。
『サイレント・ウィッチ』もまた、WEB版と書籍版で、描こうとする“沈黙の魔女”像が少しずつ異なっていきます。
まず、WEB版(なろう)では、モニカの「隠されていた素顔」や「内面の葛藤」に焦点が当てられています。
学園での孤立、自己肯定感の希薄さ、他人との距離感……そうした“痛み”が濃く描かれ、それこそが物語の核になっていました。
一方、書籍版では、物語全体の「謎解き性」や「組織的な背景」が強調されています。
セブンス・フォートという枠組み、モニカをめぐる多層的な策略、騎士団や王族との絡みなど──
より大きな物語世界の中で、モニカの“沈黙”が照射される構造です。
だからこそ、書籍版のモニカは「個の物語」から「世界の中の存在」へと変容しています。
それはきっと、沈黙が“自分を守るためのもの”から、“誰かのために選ぶもの”へと、成長していった証なのかもしれません。
どちらが正解、ではなく。
描きたい“沈黙の重さ”が変わったのだと思います。
そしてその変化が、この作品を“続けて読みたい”と思わせる、もう一つの理由になっている気がします。
4. なろう版の未完という“余白”|読者に委ねられた物語の終わり方
物語が途中で止まってしまうことは、ある意味で“裏切り”かもしれません。
でも『サイレント・ウィッチ』のなろう版は、その未完であるという事実すら、“語り”の一部になっている気がするのです。
2022年10月に更新が止まったWEB版は、物語が明確な終着点にたどり着くことなく、“途中で静かに途切れた”形になっています。
けれどそれは、“終わりが来なかった”というより、“終わらなかったからこそ残ったもの”があるのだと思うのです。
沈黙の魔女モニカという存在が、語られることを拒むように、
物語そのものも、決定的なラストを拒んだのではないでしょうか。
その“余白”の中で、読者一人ひとりが自分なりの続きを想像する──そこに、このWEB版の美学がある気がします。
完結しないことで、想像の余地を最大限に残し、読者の“感情の振れ幅”を広げる。
この“静かなる終わり方”は、商業的な完結とは違う、WEB発ならではの“余韻”なのかもしれません。
たぶんこれは、語られなかったというより、“語らないことを選んだ”物語。
その沈黙に、そっと耳を澄ませることもまた、ひとつの読書体験なのだと思います。
5. 書籍版の補完性と完結性|“言葉にされた想い”の温度
『サイレント・ウィッチ』が書籍化された意味――それは、“物語としてのかたち”を与えることだったのだと思います。
未完のままだったWEB版に、明確な構成と、終わりの在り処が与えられたのです。
書籍版では、キャラクターの心情描写やエピソードの展開がより丁寧に整えられ、ストーリーとしての道筋が明確に見えてきます。
とくに、モニカという少女の“沈黙”に対する描き方は、より多くの“言葉”をもって補われています。
それは、“沈黙の重さ”が薄れたというより、沈黙の中にあった想いが、言葉という形で浮かび上がったという感触です。
たとえば、誰にも言えなかった不安や、届くかどうかもわからない願いが、ページの上では確かな言葉として息づいている。
完結というのは、“終わった”ということではなく、“伝えきった”という手応えなのかもしれません。
WEB版が読者に余白を委ねたのに対して、書籍版は、“この物語は、こういうふうに終わってほしい”という作家の願いを手渡してくれる。
沈黙の魔女が、静かに心の中で言ったであろう「ありがとう」や「ごめんね」が、
きちんと読者の手に届く言葉になっている。
その温度こそが、書籍版が持つ“沈黙の補完性”であり、完結した物語の体温なのです。
6. 読む順番とおすすめの楽しみ方|WEBから? 書籍から?
『サイレント・ウィッチ』に出会う順番に、正解はありません。
でも、それぞれの入り口が与えてくれる感触は、少しずつ違っているのです。
たとえば「小説家になろう」から読むなら、それはモニカの“声なき日々”に、ひとりで静かに触れる体験になるでしょう。
未完のまま残された言葉の行間に、自分の感情を重ねながら読んでいく。
その自由さと即興性が、この作品の“沈黙”にとてもよく似合っています。
一方で、書籍から入るなら、物語は丁寧に道を敷かれたうえで、しっかりと導いてくれます。
モニカの想いや、周囲との関係性が一層深く描かれており、“沈黙の温度”を言葉として受け取れる構成になっています。
おすすめの順番は、「書籍→WEB(なろう)」の順。
まずは本という完成されたかたちで物語に触れ、その後で“語られなかった世界”としてWEB版を覗いてみる。
そうすることで、物語に“もう一度出会い直す”ことができます。
静かに、でも確かに届くものがある。
それが『サイレント・ウィッチ』という物語が、WEBと書籍をまたいで残してくれる読書体験なのだと思います。
7. まとめ|違いの中にある“同じ静けさ”を聴く
『サイレント・ウィッチ』という物語は、WEBでも書籍でも、本質は変わりません。
モニカ・エヴァレットという少女の、言葉にならない想いを、どう丁寧に受け取るか。
その一点において、すべての媒体は同じ“静けさ”を宿しています。
なろう版には、読者の想像に委ねられる余白があり、
書籍版には、作者の意志と構成が作る静かな確信があります。
どちらが正しい、ということではなく、どちらにも触れることで初めて気づく感情がある。
それは、ふたつの静けさが交差する場所で、私たち自身の中に生まれる“共鳴”なのかもしれません。
たぶんこの物語は、「読む」という行為そのものに、誰かの心を聴く力があることを教えてくれているのだと思います。
- なろう版は即興性と未完の余白が魅力
- 書籍版は構成美と感情描写が緻密
- 設定や展開に再構築された違いがある
- 読了感の違いから読む順番も変わる
- どちらにも“静けさ”という共通の核心がある
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